反出生主義はなぜ死なない?本当に幼稚?むしろ優しいのか考えてみた

反出生主義という言葉を少し前に聞いて、なるほど確かにそういう考えもあるな、と思いました。
というか自分自身の中にも言語化できなかっただけで、その考えはありました。
と言っても反出生主義を全て肯定してるわけでも否定してるわけでもありません。
そしてどっちが正しくてどっちが間違っているということもないと思っています。
ここで書く内容はけっこうセンシティブな内容となり、だからこそ独善的になってもいけないので、他の方の意見等もネット上などでもさらっとではありますがいくつか確認しました。
その上で反出生主義について自分なりの考えも併せてお伝えできればと思います。
目次
反出生主義とは?
まず、ウィキペディアには反出生主義について“生殖を非倫理的と位置づける見解である”と書かれています。
また、“人間が生まれてきたことを否定する思想”と、“人間を新たに生み出すことを否定する思想”の2種類に大別できるとも書かれています。
その他、反出生主義には2人の哲学者がキーとなりそれぞれに意見を主張しています。
19世紀のドイツの哲学者であるアルトゥル・ショーペンハウアーは、“人生は苦しみの方が多い、よって最も合理的な立場は子供を地球に生みださないことだ”と主張しています。
21世紀の南アフリカ共和国の哲学者であるデイヴィッド・ベネターは、“誕生は生まれてくる人にとって常に害である”と主張しています。
この世に生まれ存在する者のみが害を被り、存在しない者は害を被らない、これはフェアじゃない、よって人類は生殖をやめて段階的に絶滅していくべきだ、という主張です。
そもそも産まれなければ苦しみも害も生じない、よって生まれるべきではない、ということですね。
もちろんなぜそうなのか、というもっと細かい理由を両者説明していますが、ここではいったん反出生主義の簡単な結論として以上のようにここではまとめます。
反出生主義の本質
快楽への欲求(セックス)と子供が欲しいというエゴイズムの充足、このために人間は子供を産む、という意見がネット上にありました。
自分も、うん、そうだろうな、と思いました。
というか、結局もはやそれしかないだろうな、と思いました。
性欲は三大欲なので抗うことはできません。
人間に例えるからあ~だこ~だと難しくなるだけで、他の動物、犬や猫、牛や馬でもみれば分かります。
理性で、よし、それじゃ~子供を産もう、なんて考えることもありません。
性欲にかられやりたいから目の前の異性とやる、その結果子が生まれるだけです。
子供が欲しいというのも最終的には親となる側のエゴです、なにせ生まれてくる子供に事前にこの世に生まれたいか、生まれたくないか、と聞けるわけもないので。
ちなみに評論家でもある岡田斗司夫さんの意見も確認しました。
下記切り抜きですが、参考にしたYouTube動画です。
「子供は産まれるべきじゃない?」反出生主義に対する斗司夫の考え..子育てに間違いはない
“子供は親の勝手で作ればよい”、ということでした。
子供とは元々は労働力なのだから、農業2人でやるのが辛いから後3人手伝い欲しいし3人産もう。
これが本来の育児だけれど、それだけだとさすがにまずいだろ、と言って上にどんどんいろいろな後付けの理由を積み上げてきたらいつの間にか元々の土台が忘れられてしまった、ということです。
本来の“親のための子供”が忘れられてしまって、“子供のための親”という本末転倒状態になっているという意見でした。
これも筋が通っているしその通りだな、と自分は思いました。
この世の弱肉強食の世界を全て肯定するなら、親が子供を産みどうしつけようとそれもまた親の勝手だと思います。
岡田斗司夫さんの言っていたように、そもそも古くは労働力の担い手として子供を産んでいたはずですし、今でも発展途上の本当に貧しい地域では、労働力の確保を目的として子供をたくさん作ります。
いや、そんなことはない、という意見もあるかもしれませんが、もしそれが本当なら、今も貧困国の貧しい家庭の子供達は一切農業など一次産業に従事せず、みんな小・中・高と学校に行けて家で栄養のあるご飯を3食満足いくまで食べられているはずです。
現実は学校に行くお金もヒマもありません。
10歳で立派なお金を稼ぐための労働力です。
先進国になると人口の伸びがストップし、発展途上国の人口が急激に増え続けるのもまさに具体的なデータとして上記の事実を証明しています。
反出生主義は幼稚な考えなのか?むしろ優しい考えなのか?
反出生主義は幼稚な考えなのか?むしろ優しい考えなのか?と言うのはその人の深度によります。
これは反対している人賛成している人両方に当てはまります。
ただ自分が苦しいから産むべきじゃない、人類も消えた方が良い、と自分だけのことを考え外に責任を求め反出生主義を唱える場合、それは深度が浅いです。
同時に、生は全て素晴らしいものだ、生命を否定することこそ悪だ、自分は子供もいて実際にとても幸せだ、という自分もしくは世間の善とされる(もしくはされるべき)観点からのみ反出生主義を否定する人もまた深度が浅いです。
そもそも幼稚や論破などという言葉を使っている時点で考えが浅いです。
なぜならどちらも個人的な感情論からでる言葉に過ぎないからです。
まず簡単で分かりやすい反出生主義の例が、自分が無茶苦茶苦しんだから、これは悪だとすることです。
そもそも存在しなければこの地獄を体験することもなかった、親が勝手に産んだからこんなことになった、なら他の自分と同種である人類全体にも同じことが言える、だから反出生主義だ、とする説です。
自分がそうだから他人にも当てはめるというのは無理があります。
ただ、同時に自分には全てを否定することもできません。
なぜなら自分はその地獄を体験していないからです。
同じように地獄を体験していたら100%の反出生主義者になっていたかもしれません。
深い深度で考えた上での反出生主義者は、まず自分の幸せ不幸せなど自分ごとを基準にしていません。
これから生まれる子供や地球環境などについても俯瞰した位置から物事を考えています。
この人達に関しては他者や外に配慮した考え方、優しいと指摘される部分も持ち合わせています。
例えば、今紛争地で子供を産むことは正しいでしょうか?
間違いなく幸せな将来を送れると喜んで子を作れるでしょうか?
主体を地球とした場合、人間は果たして益をなしているでしょうか?
私達は夏によく出現するGや蚊を害虫だと見た瞬間に滅殺しますが、地球にとって本当に害となりいなくなってほしい生物はどちらでしょうか?
自分が仮に地球として生まれた場合、どちらに退去してもらいたいでしょうか?
核を作り戦争を続ける人間は地球を死の廃墟にするリスクが満載ですが、Gも蚊も他の生物もどれだけ増えようが人間が起こすような度を超えた害にはなりません。
反出生主義に限りませんが、どれだけの深さで物事を考えられるかで、同じ賛成するにしても反対するにしても、全くその色合いが変わっってきます。
自分がここで述べている考えもまだ浅い段階だと感じます。
反出生主義は賛成にしろ反対にしともっと様々な見方と意見があるはずです。
それも含めて最後に自分の勝手な意見をまとめます。
反出生主義はなぜ死なない?
最初反出生主義のキーワードを確認していた時この“なぜ死なない?”という言葉が出てきて正直意味不明でした。
反出生主義は不老不死ということなのか?とかとんちんかんなことまで考えてしまいました。
調べてみると、反出生主義は生を否定するくせになぜ自分は死なないのか?という単純なものでした。
正直この疑問を抱く人はとても浅いな、と感じてしまいました。
反出生主義の人は別に今ある生を否定しているわけではないのです。
生まれてしまった事後のことはどうしようもないからです。
それでも単純にボタンか何かを押して痛みも苦しみもなく一瞬でこの世から消えれるなら、恐らく9割方もうこの世に存在していないと思います。
生き続けているのは、死ぬにあたって相応の痛みや苦痛を経験しないとならず、それが恐いからだと思います。
反出生主義の人のフォーカスは本人を含め、今いる生に対してではなく、これから生まれる運命にある生に対してです。
仮に今ある生命に対して主張しているとしたら、もうとっくに行動に起こして何十人・何百人と人を殺害しているはずです。
それは反出生主義ではなくテロと呼びます。
単なるテロリストです。
実際に存在してますしこれからも存在し続けることでしょう。
反出生主義はなぜ死なない?という疑問は、単純に疑問を持つ人以外に感情論で抱いてしまう人も多いと感じました。
生を否定するならあなたが死ねば良いじゃん、という意見です。
これは自分が生を謳歌しているのに、もしくは苦しくてもそれでも生を肯定して頑張って毎日生きているのに、そこから逃げ出した自分に甘い考えは許せない、ならあなただけ消えれば、という意見です。
これは単なる個人的感情論になってしまっているので論点がずれてしまっていますね、議論にならないわけです。
反出生主義について自分の意見と考え
冒頭に記載した通り、快楽への欲求(セックス)と子供が欲しいというエゴイズムの充足、このために人間は子供を産む、というのは事実だと思います。
もちろん他の理性を伴う理由や意見もいろいろとあると思いますが、それらは全て正当化・美化するための後付けだと感じます。
と書くと、感情的になった反出生主義を否定する方の反感をかうかもしれませんが、自分はこれが良いとも悪いとも正義だとも不正義だとも思いません。
自分は反出生主義に限らず、感情論に惑わされず物事の本質も掴みたい場合、人以外の生物をみます。
なぜなら善悪や理性を抜きに本能のまま動くからです。
人以外の生命は本能のまま性欲を満たすため行為をしその結果子が生まれる、それだけです。
反出生主義に肯定の場合
やはり自分で生まれることを選択できなかった、というのが一番の理由です。
自分で選択して苦しい、となるなら、いや、でもそれはあなたが選択したので自己責任ですよね、となります。
ですが、地球に生まれたい、この親の元に生まれたい、と選択して生まれたわけではありません。
選択権を有無を言わさず奪われ強制的にこの世に生み出されるのです。
言ってしまえば親の都合で生み出され、親になる責任も覚悟もない人間(最初から持てという主張ではありません)が親になる可能性もあります。
余談ですが、輪廻転生など宗教の理論はここのテーマに限らず全てのテーマが破綻し意味もないのであえて触れていません。
私は実はこの親の元に生まれたくて選んで生まれてきたんだ、という意見もありますが、生まれてすぐ虐待され死んだ子達、捨てられて死んだ子達はそれを望んでその親をあえて選び生まれてきたのでしょうか?
人によっては地獄のような人生が待っている人だっています。
容姿にちょっとどころか恐ろしく恵まれなかった、親が毎日暴力を振るう・性的虐待を毎日受ける、生活が極度に困難で苦痛を伴う難病を患う、戦争中の激戦地に生まれる、他にも例を挙げればきりがないかもしれません。
反出生主義を否定する人ももちろんたくさん苦難を経験をしていると思いますが、本当の地獄を経験していますでしょうか?
自分を含め、存在するだけで地獄というような経験を生き抜いた上での意見でしょうか?
少なくとも自分は経験していません、だから生が善で素晴らしい、反出生主義は間違っているなんて簡単に言えません。
その他に地球を主体と考えた場合、やはり人間はいない方が地球にはよっぽど益があります。
自分達が害虫・害獣と言って駆除している虫や獣達の方がよっぽど地球には益虫・益獣です。
むしろ人間から一方的に搾取される側の牛・豚・鶏などからしたらこちらが凶悪で血も涙もない害獣ということになります。
自分が地球だったら、自分の生命を奪うリスクが一番高いのは核を発明し戦争を何千年も続ける人類です。
他の動物はどれだけ増えても地球の生命を奪う程にはなりません。
自然の作用でバランスも整います。
遺伝子操作をし核を発明した人類はそのラインをとっくに超えてしまっています。
もはや自然でどうこうなるものではない存在となってしまったわけです。
反出生主義に反対の場合
人間を主体とした場合、つまり通常運転の今の世界の場合、反出生主義には反対です。
なぜなら人間が主体で主役だからです。
全て人間ありきなのに、それを滅ぼすというのは真逆の行動で矛盾しています。
人間いなくなりました、地球と動物が残りました。
間違いなく平和で自然豊かな環境になるでしょう(ただ元の状態に戻るのには数千万年はかかるでしょう)、動物同士の弱肉強食の世界は残りますがこれもまた自然です。
が、人間という主人公がいない世界は人間になんの意味があるのでしょうか?
そもそも人間自体も自然の一部だったのでは?
全く意味がないですね。
地球環境にも動植物にも確かに現時点では人間はデメリットだらけで悪かもしれません。
ですが、環境保護活動を訴える人も年々増えていますし、保全するための対策も国ごとに行っています。
とりわけAIが登場した現代では、AIが素晴らしい対策を生み出してくれるかもしません、なんなら核も戦争も止めてくれるかもしれません(と言ってもAIは諸刃の剣にもなるのでなんとも言えませんが)。
反出生主義はそもそも主義であり考えです。
それを個々が考えるの自由ですが、それを逆の考えを持つ人達に強制するのもまた違います、むしろ反出生主義の考えに相反してしまいます。
浅い段階で自分が苦しいから他も無くなれ、という方は、仮に自分が恵まれた状態で生まれ幸せだったらむしろ反出生主義に反対する立場になっていたのでは?これは逆もまた然りですが。
結論とまとめ
ずるいかもしれませんが、自分は反出生主義に反対でも賛成でもありません。
間違っているとも正しいとも思いません。
でもどちらかと言うと、現時点の世界では反出生主義寄りなのかな?という気がします。
と言うと、いやそれはあなたあんま幸せじゃなかったり苦しいからじゃないの?と思われるかもしませんが、なんなら毎日やりたいことだらけで生きていて楽しいです、まだまだ生きたいです。
それはたまたま自分がかなり恵まれた、つまりたまたま大吉引いて生まれただけであって(勝手に自分がそう思っているというだけです)、これが大凶だったら多分親と世界を呪いそうな気がします。
でも反出生主義は現実的ではない理論だな、とも感じます。
反出生主義に賛成でも反対でも、正しくても間違っていても1つ言えるのはもうどちらの側もこの世に存在しているということです。
そうしたら、もう生きるしかないわけです(もちろん別の選択肢もありますが、それはもやは反出生主義と関連しない行いということになります)。
だったら自分はとことん楽しみます。
じゃないと損です。
難しいなら、そうできるよう道を切り開きます。
(ただこの道を切り開く、努力する、というのも生まれながらの性格や素質の部分もかなり大きいので、言ってしまえばつまり運、ということになってしまします)
その上で反出生主義としての生き方を貫くのも全然ありだと思います。
主義主張は自由であるべきです、なんならどちらの側も考えが途中180度入れ変わったって良いのです。
大事なのはいろいろな意見を聞いて、木と森を見て、俯瞰してその上で自分なりに考えていくことです。
どちらが正しいか正しくないかではなく、その物ごとについて考えるという行為自体が一番大切な気がします。