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聲の形を見た感想、イジメや障害という先にあることがテーマだと感じました

2019年7月27日

「聲の形」は、子供から大人まであらゆる年齢の人に見てもらいたい作品だと感じました。
と言っても3年前の映画なので既に見ている人は多いと思いますが。

恐らく誰しもが胸の奥を突かれるような経験をする作品なのではないかと思います。
誰しもが人生のどこかで恐らく経験している共通のことだからです。

自分は原作も読んでいたのですが、改めてアニメーションを見てそう感じました。

※ 以下ネタバレ含みますので、まだ作品を見ていない方・内容はまだふせておいてという方は、見終わった後にまた訪問してもらえると幸いです

突っ込んだ部分まで触れた作品

聲の形は賛否両論を起こした作品としても有名です。

一番の理由は、通常では触れない奥の部分まで触れている部分、だと自分は感じました。

実際に、2008年に第80回週刊少年マガジンの新人漫画賞で入選を果たすものの、マガジンでの掲載は1度見送られています。

理由は、読者に前向きな希望を与えられない作品だと当時は判断されたためです (のちに様々な議論を経て連載がスタートします)。

正直主人公のやっているイジメは、通常の感覚をもっている人間でしたら見るに堪えかねません。
イジメられた経験のある人でしたら、いえ、過去にイジメていた側も見続けることは本当にきつく感じると思います。

これでイジメる側が完全悪だけで終わる、当たり障りのない通常の映画でしたら、正直賛否の賛だけで終わっていたと思います。
また、ここまで社会にインパクトも与えなかったと思います。

ですが、これはどちらが良いというのではなく(イジメという行為自体は悪いです)、両者のもっと深い心の部分を描いています。

一方通行で終わらせていないのです。

また、イジメには加害者と被害者だけでなく、必ずその“周り”も存在します。

あえて色をつけるとすれば“グレーな人達”
人によってはこのグレーな人達も加害者だと位置づけることもあるかと思います。

そこにも焦点をあてて、よりリアルを反映して描いている作品だと感じました。

現実として成り立つ世界、というより現実の世界で起こっている出来事でもあるからこそ、多くの人から賛否両論をここまで巻き起こしたのだと思います。

また、自分自身が素晴らしい作品だ、と思ったのもまさしくこの部分です。

悪いことは悪い、で簡単に締めて賛否の賛だけで綺麗に終わらせることもできたはずです。

ですが、そこをあえて白黒だけで終わらせない、現実の両者・そしてその周りの人達の主張と行動、どろどろした部分・突っ込んだ部分まで表現している。

表面の綺麗な部分だけすくって簡単に終わらせず、批判も承知の上でそれでも出す意義・意味がある、そうやって生まれ実際に作られた作品・映画だと感じました。

物議を醸した理由

聴覚障害者を引き合いに感動を煽っている

よく批判されている内容の1つには障害のある方を引き合いにして感動を煽っている、という部分でした。

24時間テレビ等でよく言われる“感動ボルノ”だ、ということですね。

確かに実際被害者は聴覚に障害があり、それが元でイジメを受けます。

ですが、自分は障害はあくまで表面上のこと・1つのことであって、中心のテーマは全く違う、と感じました。

この映画の中で一番大きなテーマとして扱われているのは“人と人とのコミュニケーション”です。

聴覚に障害がある方だけでなく、全ての人間がテーマとなっているのです。

ヒロインがかわいいから成り立っている

中にはかわいい子がヒロインだから成り立っているんだ、という意見もありますが、超現実的に言ってしまうと、それを欲しているのはなにより見る側なのです。

仮にかわいくない子を出した方が好感度も上がり、視聴率も上がるのでしたら、アニメに限らずテレビも映画も広告も全て、かわいくない子、またはかっこよくない人がたくさん出ていると思います。

ですが現実は、テレビ・映画・アニメ・広告、その9.9割方がかわいい女性・綺麗な女性・かっこいい男性です。

ニーズがあるからです。

逆を突いた1割の広告やCM等もありますが、それもやはり“逆をついている”という時点で、9.9割がありきの世界だからこそ成り立っているのです。

この外見に関しては批判する人も含め、人は見た目で判断するのです。
これは良い悪いではなく、生まれたばかりの赤ちゃんでさえ、顔の整った人に魅かれるように、生物の本能なのです。

なので、可愛いから、という理由は聲の形に限らず世の中の全てのことに言えてしまうため、論点がずれてしまっていると感じます。

ちなみにここでは外見が良いから良い、それが全てといった話は取り上げていない・全く別の話となってくるのでご了承ください。

イジメる側を擁護するようにも受け取られる

結論を言うと、これはイジメを擁護しているのではなく、“聲”を描いています。

どちらがどうだ、ということより、聲に焦点を当てて描いているのです。

ここを通常通り美化して片側だけに寄ってしまったら、批判もなく良い作品だったと言われた代わりに、特に訴えるもののない(訴えるものはそれでもありますが、他でも既に訴えられているもの)普通の作品にもなってしまったと思います。

イジメはまず悪いこと、物事に白黒自分は基本めったに付けない、というか付けられないですが、ここに関しては言えます。

ですが、聲の形ではイジメる側の聲も描いています。

イジメる側、といったら全員が反省している、後悔している、だけだったら波風も批判も起きなかったと思います。

特に植野の存在は聲の形の中で大きかったと思います。

謝るどころか、高校生になっても硝子に会うと敵意を見せたり、こっちにも言い分がある、自分だけが悪いのではない、と直接告げたりします。

いじめた側が、自分にもあなたに対して言いたいことはある、と強く主張するのは、現実でもイジメはある問題なだけに批判を招くのは分かります。

ですが、これを後悔している、だけで終わらせてしまうと、本当の部分が隠れた通常のよくある作品となってしまいます。
いじめる側にも、それが正しい正しくないはおいておいて、意見があります。

いじめは一方方向ではなく双方向です。

いじめられた硝子が更に自分を責めている部分も批判を招いたと思います。
最後には硝子は自分の死で全てを解決しようとしています。

まるでいじめられる側にも責任があったかのようです。

いじめられる側に責任は全くありません、ですが“聲”はありました。

ここも伝えているのはどちらが悪いという話ではなく、硝子も人間である、という部分です。

硝子は障害が有る無いより、いじめるいじめられるより、何よりも先に1人の人間です。
耳が聞こえなくても、話せなくても“聲”はあったのです。

硝子も決して完璧でなければ、人と人とのつながりの中で生きているのです。

イジメられた側がイジメた側を好きになる設定に無理がある

そもそもあれだけのイジメを受けた硝子がイジメた側の石田を好きになっていく、という設定に無理がある、という意見も多いと思います。

正直自分も普通現実ではまずありえない、と感じます。

そもそも硝子の、加害者に対する怒りよりも自分がまず悪い、ごめんなさい、と人よりも自分を責めてしまう性格自体が中々ありえない、と感じます。
ですが裏を返せば、それは自己肯定感が極端に低い、ということも意味します。

硝子を取り巻く様々な状況を考えれば、ここは無理もない話で頷くことができます。

イジメた相手に対しても積極的に関わっていき、その後石田がいじめられ机に落書きされるようになってもぞうきんでその落書きを拭いたりと、憎しみどころか真逆の行動をとっていたりします。

自分には全く硝子の想いを想像することはできませんでした。

ただ、硝子はそもそもがやはり優しい子です。

イジメられたからこそ、石田が置かれた状況を誰よりも理解したのだと思います。
それがたとえ元々自分をイジメた相手だとしても、その姿が自分自身に重なり、痛い程その辛さが分かる。
想いを抑えられなかったのだと思います。

最終的に取っ組み合いまでして本気で闘った相手も石田だけでした。

硝子にとっては、石田はいじめっ子でもあり、同時に特別な存在でもあったのかもしれません。

人間のコミュニケーションがテーマ

自分が見て感じたのは、この作品のテーマは繰り返しになりますが、“人間のコミュニケーション”、であると感じました。

子供だけでなく、大人のテーマでもあるのです。

イジメという大きな最初のきっかけのテーマはありますが、イジメもコミュニケーションから発生する問題です。

その全てがコミュニケーションのずれから発生する、とは思いませんが、やはり人間同士の出来事なので、コミュニケーションは必ず大きく影響を与え関わってきます。

このイジメですら、大人になっても存在するので、やはり大人のテーマでもあります。

現実を反映した世界

自分がリアルだな、と感じたのは、その主人公と周りの描写です。

ただ、補聴器を投げ捨てる、身体に障害のある人をからかう、等の行き過ぎている行為は、自分が子供の時でも全く理解できなかったと思いますが、そこはここでは(これから取り上げるテーマでは)重要な部分ではないので省きます。

イジメのエスカレート

まず、イジメが徐々にエスカレートしていく部分、周りも主人公の石田程ではないにしても同調したり、もしくは特に触れないようにする大部分のクラスメート等、実際の学校で起こっている部分を忠実に反映しています。

休み時間には、石田は友人にプロレスごっこで首を絞めたりしていますが、こういういじられキャラ的なクラスメートも必ずクラスまたは学年に何人かはいたと思います。

ここではイジメにつながっていませんが、このいじられキャラからイジメにつながることも現実の世界では多々あると思います。

相手が特に抵抗してこないことを知ると、イジメる性質も持つ人間は、これがだいじょぶなら次はこれもだいじょぶでしょ、と徐々にやることがエスカレートしていきます。

大抵のケースは単独というより周りも巻き込んで、もしくは自然と巻き込むような形になって。

ある人がそうやって対象になっていくと、大抵の人はなんかあの人嫌われてるっぽいし自分も近くにいって同じ存在に見られると嫌だから近づかないようにしよう、話しかけないようにしよう、となります。

当人からのイジメプラス集団からの孤立・その内に悪口も囁かれるようになり、イジメられる側からしたら学校に行くことは地獄以外のなにものでもなくなります。

これが実際に硝子に起こった出来事です。

イジメは2者間ではない

イジメを受ける側・受けられる側、があると思いますが、大抵は1対1ではありません。
中心となってイジメる者がいても、必ずそこに近い人・遠いけれど見てみぬふりをする人等が存在します。

ここでは石田に近い島田や広瀬が一番近くにいて、直接手を下さないにしても面白がって同調しています。
女子では植野が中心となって悪口を言い、川井も同調しています。

その外に知っていても関わらないようにする人がいます。
下手に関わって矛先が自分に向くと恐いからです。

恐らくイジメが発生した時点で、当事者以外クラスの全員がほぼ知らなかったということはまずないんじゃないかと思います。

また、ここでは先生も気付き注意していますね。
ですが、本気になって絶対やめろと注意するのは大事件・自分ごとになってからです。

これも現実っぽいですね、現実ではそれさえ最後まで気付かなかったふりをする先生も一部いるとは思いますが。

イジメる側がイジメられる側になる

イジメる側だった石田は、先生に本気で叱られた後、逆にイジメられる側になります。

仲の良かった友達からいじめを受けるようになります。

これも現実である問題だと思いました。

ここでのケースに限らず、今までグループに属していたのがなにかのきっかけで反感を買い排除される側になる。

基本、その排除する側はそもそも近かった人達です。
近かったからこそ、その分その人に対して強い感情も湧くのです。

本当にどうでもよいという人はそもそも関わらないです。

イジメを身をもって経験し、高校生になった石田は最後に硝子に会いに行きます。

近づくと標的にされる

佐原が唯一硝子に自分から積極的に手話まで覚えて話しかけ、近づいていこうとした人物です。

ですが、それは“浮く”行為です。
クラスの誰もやっていないので、集団から浮いて目立ちます。

浮くこと・目立つことをすると、気に食わないと感じる人間がでてきます。
簡単な感情を表現すると、自分より目立って腹が立つ、といった形です。

そうすると、出た杭を打つためにその人間から自分に同調するようにと悪口が始まります。
ここでは植野がその役ですね。

植野は周りの友人に佐原の悪口を言い始めます。
佐原はつらくなって最終的に硝子から離れ学校も欠席するようになります。

この標的になるのが怖いからいじめが発生すると大半の人は知っていながら何事もないように過ごすか、その悪口に同調するのです。

イジメた側である植野の主張

イジメた側の主張も描いているのが聲の形の大きな特徴だと感じます。

特に植野は唯一高校生になってもいじめ自体を否定せず、むしろ硝子を攻撃します。
ただ、誰よりもストレートに本音で硝子にぶつかろうともしています。

硝子が自分の“聲”で話さなかった

植野は役的に完全に嫌われるキャラだと思います。

全く過去のイジメを後悔していないからです。
ただ、葛藤していたことを告白し、硝子への理解が足りていなかったことは認めています。

自分も正直植野の言動には同調できない部分が多々です。
ですが、それだけではない、時にはしごくまともなことを言っているし、人のために行動していることもあります。

植野も白黒で終わらせられるキャラではなく、1人の人間なのです。

植野は観覧車の中で硝子に“あんたが嫌い”と告げます。

その上で小学校の頃に硝子のことをしっかり理解していなかったことは認めます。
ですが、硝子もこちらのことを理解しようとしなかった、そう告げます。

クラスの空気を読まずに合唱コンクールに参加し、落書きすることで自分達にこれ以上関わるなとメッセージも発した。
つまり、こちらのことを察せずにコミュニケーションを取る努力を放棄した、ということです。

ここは自分はなんとも言えない部分です。

落書きに関しては、その前に普通に分かりやすい害のないメッセージ送りなよ、とも思いましたが(それが通じなかったとしても落書きはダメですが)、子供のやること、と考えると、これも現実を反映したやり方だと感じます。

コミュニケーションも、察することが必ずしも良い、とは思いませんが、人の気持ちを察する、という部分も、障害の有る無しに関わらず、大切なことです。
といってもその障害の種類にもよります。

特に最近は察するより、自分を出せ、個性を出せ、人の目・嫌われることは気にするな、という風潮もありますが、これはそのまま言葉通り表面だけをうのみにすると、単なる自己中心的で没個性的な人間が出来上がります。

植野は結果的に石田も友人を失い、こちらも傷ついた、と言います。
植野の感情に全く同調できない部分ではありますが、良い悪いはとにかく、植野は自分の本音を真っ直ぐに硝子に伝えています。

それに対して硝子が謝ると、本人が理解していないのに謝ることができるの?と聞きます。

その上、最後に硝子が自分自身のことが嫌い、と絞り出すように言うと、本気で怒って平手を食らわせます。

植野が本当に最低な人間であるように思えます。
普通でしたら真逆の言動をするところです。

硝子はイジメられていた上に、ここでのこの仕打ちはとてもかわいそうです。

ですが、ここは自分は過去のことはおいておいて植野が言うことには一理あると思いました。
暴力はそれでも正しくないですが。

なぜなら植野は怒りでも暴力でも何でもよいので、硝子からの本音の感情、“聲”を求めていたのに、硝子はそこから自分を責めることで逃げてしまったからです。

自分自身が嫌い、というのも確かに硝子の本音だったとは思います、ですがここで植野が求めていたのは、硝子からの自分に対する本当の気持ち・自分との対話だったのです。

論点をそらして自分を責めた硝子に心から怒りが湧き上がったのです。

硝子のありがとうもごめんなさいも本当の心からの言葉ではなく逃げだ、小学校の頃から何も変わっていない、と告げます。

硝子が死ぬことで償おうとした

硝子は自分が死ぬことで償おうとします。
ですが、結果的には硝子を助けようとした石田が代わりにベランダから落ちてしまい、石田が生死の淵をさ迷うことになります。

毎日のように看病に行っていたのは植野でした。

植野は硝子に激怒し暴力をふるいます。
なぜなら、そのせいで石田が死ぬかもしれない状態だったからです。

正直、この時の暴力も暴言も一切賛成できません、ですが植野が言っていることは正しいです。

“みんなの気持ちを知りもせず勝手にそれが一番いいって判断して飛び降りた”
こう叫びます。

自殺は自分も周りも誰も救えません。

ですが、同時にとても難しい部分だと感じました。

自殺はそもそも本人が自殺する程追い込まれ、何も周りが見えない状態・判断ができない状態になっているからです。

見えない硝子の“聲”を少しでも周りが聞くことができれば(結絃等は実際耳を傾け行動しているのでここも難しい部分ではありますが)、同時に硝子自身が少しでもその本当の“聲”を発してその弱さを誰かに頼ることができれば、良かったのかもしれません。

イジメた側である川井の主張

自分に都合の良いように過去を解釈し、硝子に対して昔から味方だったかのように接する川井は、もしかするとストレートに気持ちを表現する植野以上に嫌われるキャラクターなのかもしれません。

ですが、ここもリアルを描いていると感じました。
同時に川井も白黒のみで表すことのできる人物ではないと感じました。

まず、川井は植野程イジメに積極的ではなかったとしても、同調し止めることもしていません。

そして、驚くことに高校生になった頃には自分がそっち側だったことすらほとんど覚えていません。

ですが、これは現実にあります。
被害を受けた側は覚えていても、加害した側、その中心付近と周りにいたグレーな人間はあまり覚えていない、ということは現実にあります。

なぜなら、軽い気持ちでやっているので(程度によります)、当人には強い印象が残っていないのです。
その当時は覚えていても、そこから離れて何年もすると記憶から忘れ去られてしまうのです。

川井は自分のことは忘れて後になって石田や植野のことを批判します。
そして硝子が死のうとした時には抱きしめます。

人によっては裏表があるようで八方美人な人物に写るかもしれません。

ですが、どの川井もこれは“素”だと思います。

記憶を都合よく塗り替えたことに自分自身も気付いていないのです。

硝子を抱きしめて、“自分のダメなところも愛して前に進んで行かなくちゃ”と呟いた時の川井も素です。
心からそう思って硝子に伝えています。

言動に偽りがあると(実際本人は偽りと思っていませんが)、その人間の全てが偽り、つまり全てが黒に見えてしまう、そう心理的にも捉えたくなってしまうのですが、黒だけの人間も白だけの人間も、硝子含めこの作品にも現実の世界にも存在しません。

石田と硝子は同じだった

いじめる側といじめられる側、石田と硝子は一見真逆だったようで、一緒でした。

それは、“自分の聲に閉じこもっている”部分でした。

全てのことを自分のせいにし、自分の一方通行の聲だけを聞いてしまっています。

石田にとってはそれは当然のことだったのかもしれません。
ですが、石田も硝子も自分を責め自分だけの聲を聞き、それが最善の方法と思い込んでどちらも自殺を試みています。

その本当の聲を周りの人が気付いてやるべきだったのかもしれません(気付き行動している人もいるので実際難しい部分でもあります)、ですが、本人たちもその“聲”を少しでも届けるべきだった、他人に寄り掛かるべきだったのです。

石田は最後に硝子に言います、“君に生きるのを手伝って欲しい”

いじめた側の石田がとても口にできる言葉ではない、少なくともこれまでの石田はそう考えていました。
ですが、石田が初めて心の“聲”を硝子に届けた瞬間でした。

初めて発した、のです。

その言葉には、たくさんの想いが詰まっていたのです。

みんなの顔から✕印がとれていく

石田は自分がいじめられる立場になったことで、人間不信に陥ります。

悪口を言われていなくても、みんなが自分の悪口を陰で囁いているように聞こえてしまいます。
いつしか他人の顔をまともに見ることもできなくなり、自分には関係のないクラスメートの顔1つ1つに✕印が付くようになります。

そうすることで、自分の籠に閉じこもれ、精神を安定させて自分を守ることができたからです。
他者と最初から関わらなければ自分が傷つくこともありません。

ですが、永束という信頼できる友人ができることで、少なくとも永束に対しては✕印が取れます。

小学校のクラスメートだった川井は✕印が最初の頃はついたままです。
未だ受け入れられない、石田にとっては思い出したくない過去だったからです。

植田に関しても思い出したくない過去のはずですが、最初は✕印が顔にはなく、しっかりと見ることができています。
植田はただの思い出したくない過去、とはまた別の存在だったのです。

ですが、やはり思い出したくない存在に変わりない、と途中から同じく✕印がつくようになります。

川井は髪型を変えた時に初めて✕印が顔から取れます。
それは石田が川井の心情を硝子に重ね、その気持ちを少し理解することができたからだと思います。
石田の一方的な決めつけだけの川井ではなくなった瞬間です。

最後には、石田はぜんぶを見て聞くことを選択します。

その瞬間に全ての人間から✕印が剥がれ落ちます。

石田が自分以外の他者の“聲”を聞くことを選択した瞬間です。

自分だけでなく、誰しもが聲を持っていることに気付いたのです。

個人的に特に印象に残ったのは、映画ではでてきませんが、“よく学校来れるよなぁ”という自分に向けられた空想ではない実際の声さえもしっかりと石田が受けとめていた点です。
それがそもそも怖くて✕点をこれまではずっと付けていたのです。

本当の意味で石田は全ての人に対してしっかりと向き合うようになったのです。

自分の経験から

自分は最初コミックを読んだのですが、読んでいてかなりきつい、と感じました。

全然内容に同調できない、こんな風な考えになることもなければこんな人間は実際にはいない、という意見もあると思います。

ですが、自分は真逆でした、すごくリアルだ、と感じました。

自分は両者を石田と本当に全く同時期に体験しているからこそ、読み進めることがかなり辛い漫画でした。
ここまで読むのがきつい漫画、でもどうしても読まなければならない、と感じた漫画は初めてでした。

石田の体験していることは、自分が実際にやったことやられたことでした。
もちろんどちらの側もここまでの程度では全くありませんし内容も違います、程度という言葉を出すのも自分でもどうかとは思いますが。

石田の心の流れや考えていることはかつて自分が経験したものでもありました。
同時に周りの人の動き・考えもやはりここに描写されているままだと感じました。

いじめはひどい、まともな精神を持っている人なら誰しもが同調することだと思います。

ですが、実際に小・中・高を通して学校で1度もいじめを目にしたことはないという人はどれだけいるのでしょうか?

大人の世界でさえあることです。

その時に私達はどんな行動をとっていた・いる・とっていくのでしょうか?

いじめは悪い・いじめられる側に責任はない、自分はここに関しては断言しますが、同時に全ての人間を白黒だけでカテゴライズはできない部分だと感じます。

もちろんいじめられる側からしたら、イジメた側は黒以外の何色でもなく、遠巻きに見ていたその他大勢も真っ黒ではなくとも似たような存在です。

ですが、聲の形は更に突っ込んだ部分に触れています。
それが“聲”です。

いじめ、だけの話ではない、全ての人間に共通することなのです。
一方向で決めつけ、嫌ったり憎んだり、自分自身にそれを向けたり。

自分の声を聞くことばかりに慣れてしまっているからです。
それでいて自分の“聲”と他人の“聲”にしっかりと耳を傾けられていないためです。

自分も他人も救えなくなってしまうのです。

人は、生きている限り、一方向ではなく、双方向なのです。

石田は最後に“よく学校来れるよなぁ”という以前は怖くて仕方がなく、ずっと逃げていた言葉にさえしっかりと向き合っていました。

それは、彼が本当の意味で聲を聞くことにしたからです。

まとめ

聲の形

聲の形はコミックを読んでから映画を見たのですが、映画も本当に素晴らしいなと感じました。

1つ1つの繊細なアニメーションから音楽・各キャラクターの声を通した感情まで、本当に引き込まれました。

原作者の大今良時さんは入選当時19歳だったとのことで、本当に驚きましたが。

制作会社は「京都アニメーション」です。

プロデューサーである山田尚子監督は原作を読み、その魅力に惹かれ映画化したいと自ら直接出版社に赴き映画化が実現したのでした。

実際の聲の形の制作の様子や山田尚子監督・声優さんのインタビュー等は下記をご覧ください。
当時の建物・現場の様子もそのまま見ることができます。


映画を見てまだコミックを読んでいいない、という方は、よりリアルに繋がりが分かると思うので(きつさも同時に何倍にもなりますが)、ぜひ原作も読んでもらいたいです。

海外の方の感想を読んでいたところ、全ての小学校でこれを見せるべきだ、そして翌日には各自の感想を交わす場をまた別にしっかり時間をとって設けるべきだ(あえて1日空けるのはじっくり自分なりにいろいろ考える時間を設けるためとのこと)という意見もありました。

自分もそれはすごく良い案だと思いました。

聲の形は人によって様々な意見があると思います。
共感できる人もいれば共感できない人もいる、良いと思う人もいれば悪いと思う人もいる。

でもそれで良いのではないかと思います。
それこそこの作品で伝えたかったことなのではないでしょうか。

全ての人が“聲”を持っているのです。