東京喰種:re最終16巻まで読み終えた感想!
人間と人間を襲う喰種が存在するのが東京喰種。
今月7月19日には実写版の東京喰種Sが上映開始しますね。
初めて東京喰種を見た時は、単にグロテスクな戦闘が繰り広げられるアニメかな?と思っていたのですが、むしろもっと深い部分がテーマでした。
人間の内面・現実の世界を反映している作品だなと感じました。
現実の世界で起こっている様々な社会問題・差別・暴力、がこの東京喰種では色濃く反映され、また提示されているとも感じました。
東京喰種自体は1年程前に東京喰種:reの最終巻(16巻)が発売され完結しているのですが、自分はつい最近コミック全巻読み終えたので、その感想をお伝えしたいと思います。
※ネタバレ的な内容も含んでいるので、今それは困る、という方は東京喰種を読み終えた後でまた寄ってもらえると幸いです
目次
どちらも助けているようでどちらも見捨てている、それは優しさではなく弱さ(リゼの言葉より)
カネキはリゼとの対話でカネキが必死で母親を庇うシーンがあります。
カネキの母は過労で倒れ亡くなってしまったのです。
それもこれも全てお金を借りにくる実の姉を助けるため、そして自分の息子であるカネキを育てるために必死で働く必要があったためです。
結果、自分が倒れカネキを残してこの世を去ってしまいます。
自分もカネキもどちらも救えなかった。
リゼはそれは優しさではなく自分の弱さであるとカネキに語ります。
何かを捨てでも何かを守らなくてはならない時がある、その捨てる覚悟を持てなかった母親の弱さだと伝えます。
これはリゼの言葉の通りだと感じます。
優しさは時に弱さの裏返しだと思います。
本当は姉の要求を断れば良かったのに、助ける、という言葉を盾にしてしまった、ですが本当はそれは自分自身が断れない弱さでもあったのです。
何かを得るには何かを捨てる必要がある、でなければその両方を失うことがある。
カネキの母親とはケースが異なりますが、リスクを避け、保身しながら容易に得ることばかりを考えてしまう、これも一緒です。
二兎を追う者は一兎をも得ず・虎穴に入らずんば虎子を得ず、先人の言葉は本当に的を得ていると自分自身が日常を生きていて感じることがよくあります。
助けるため捨てる・選択する覚悟、大きな勇気を必要とするかもしれませんが、それができないと、時に本当に大切なものさえも失ってしまうことがあるのです。
守れないのは自分が弱いから(カネキとリゼの対話から)
自分に力がなかったために自分も仲間も助けられなかった。
カネキは何度も強大な力の前に屈し、それを圧倒できる力がなかったことを悔やみます。
人間と喰種が分かり合える世界を、理想があっても力がないために、結局自分も仲間も守れないのです。
力なき正義は無力である。正義なき力は暴力である。
元々はパスカルが語った、「力なき正義は無能であり、正義なき力は圧制である。」からきた言葉です。
理想論は誰でも語れます、それを実行する力がなければ、机上の空論で終わってしまうのです。
現代社会を反映している言葉でもあります。
力があれば解決できたけれど、それがなかったために支配されてしまう。
自分は現実の世界は力が全てだとは思いません、ですがやはり力がないと支配される、というのも多分にあるとも感じます。
現実に大切なものを守れず・命を落とすケースさえあります。
理想と力、両方があるからこそ自分・友人・家族・社会を救っていけるのです。
お互い(人間と喰種)が世界を歪めている(亜門の言葉より)
喰種が人間を襲い、人間も喰種を非難攻撃する世界。
かつて喰種を捕らえる喰種捜査官であった亜門は“この世界を歪めているのは貴様ら(喰種)だ”と糾弾します。
確かに亜門の言うことは最もです。
喰種がいなければ、誰も襲われることはありません、平和な世界です。
ですが、喰種は存在します。
この世に生まれた以上、生きていくには人を食べる以外に方法が彼らにもないのです。
カネキは亜門の言葉を否定はしません、ですが肯定もしません。
“もっとお互いを知らなければならない”、と語ります。
亜門はその後、自分自身が人を食べなければ生きていけない喰種の身体になってしまいます。
その上で最後に語ります。
“歪めていたのは俺もだ”
本当に大切なのは技術の先にある想い(松前と観母の特訓より)
松前が観母(みるも)から特訓を受けていた時のことです。
観母から敗北した理由を問われ、松前が観母の剣は自分では防ぐことはできないと語ります。
観母はもちろん技術は大切だが、もっと大切なのはその先にあるもの、“想い”、だと語ります。
技術や基本は大切です。
ですが、最後に残るのは“想い”です。
表面ではなく、その内になる想いが人を強くし、届くのです。
逆に想い(内面)がなければ、どんなに高度でも、型が整って綺麗に見えても、いざという時に簡単に壊れてしまうのです。
全てを失っても、その想い(核)があれば、それは最後まで残り届いていきます。
個人的な話になりますが、このブログを書いている自分もそう思って書いています。
自分より文章が上手い人・表現が上手い人・技術のある人・インターネット事情に詳しい人、ごまんといます。
その上で、自分に何ができるか、と問えば、それはやはり、最終的には“想い”で書くことなのかなと思います。
理由は好きだから(ヒデの言葉より)
亜門はカネキの友人であるヒデに、なぜそこまでカネキのために行動できるのか尋ねます。
ヒデは自分の命を犠牲にしてでもカネキを救おうとします。
カネキの知らないところでも、常にカネキを救うために裏で動いています。
亜門がなぜそこまでただの友人に対してできるのか?と疑問に思うのも不思議はありません。
それに対してヒデが答えたのは、
“だってアイツの事好きっすもん”
の一言でした。
とてもシンプルです、好きだから助ける、それだけということです。
真戸アキラが喰種化した元同僚の滝沢を前にした時も、最期の最後には彼を守ることに徹しました。
喰種捜査官として、規律に厳しく感情より理性で判断できる彼女も、最後の最後には掟に背き自分の感情で動いたのです。
それも、善悪という理論ではなく、自分の守りたい、という感情を優先させたのです。
話は変わりますが、サイコパスというアニメでも父親が息子を庇うシーンがありました。
息子も助けに来るな、自分の仕事をまっとうしろ(自分を守ることより犯人を追うこと)と父親に叫び、実際父親もこれまでそうやってずっと生きてきました。
が、彼も頭では分かっていても、最後の最後には刑事であることではなく、父親であることを選択し、息子を庇って命を落とします。
人を最後の最後に突き動かすものは、理性でも合理的な判断でもなく、きっと、好き・守りたい、というとてもシンプルで、強い感情なのです。
失うばかりの世界ではない(四方の言葉より)
ウタがこの世界に対して、失ってばかり(なくなってばかり)だ、と呟いた時、四方は失うばかりではないと語っています。
失うばかりの世界でも希望はあることを告げています。
それが“つながる(繋がる)”ということです。
四方にとってそれは“新しい命”も意味しました。
何かを失っても、また新しい何かが生まれてくるのです。
人間も喰種も、現実世界の地球上のどんな生物も、そうやって繋がることで世界はまわってきたのです。
共存するということ(カネキの理想より)
最終的にカネキが最後まで追い求めたのが、人間と喰種が共存していくという道です。
お互い狩って狩られての関係でそれはとても難しいことです。
これまでに数えきれない程の人間と喰種が、そしてその(お互いの)家族と友人が犠牲となっています。
今さら過去をきれいさっぱり忘れて仲良くなろう、というのは、お互い感情的にとても受理できることではありません、
現実の世界と一緒ですね。
憎しみの連鎖を断ち切ることは容易なことではありません。
“共存”、という言葉は単なる理想論かもしれません、ですが、無理解のまま、憎しみを引きづったまま、同じことを繰り返していたら、世界は益々悲惨なものとなっていきます。
共存は単なる理想論、そこで思考を停止し現状維持を続けるのではなく、だったらどうすればその無謀な理想を叶えることができるのか。
カネキは理想と現実に葛藤しながらも、最期までその理想に向けて動き進み続けます。
正しい・間違ってるではなく、考え続けること(亜門の言葉より)
亜門は元々喰種を捕らえる側の捜査官であり、間違っているのは喰種だ、この世界を歪めているのは喰種だ、とかつて語っていました。
ですが、自分自身が半喰種となった時、初めて相手の状況を理解します。
そして、“この世界を歪めていたのは俺もだ”、と語っています。
何が間違っていて何が正しいのかが簡単に分からなくなる世界だから、“考え続けるのだ”、と語ります。
正しい・正しくないが分からない世界で、唯一正しいと思えるのは、この“考え続ける”ということなのだと自分も感じます。
現実の世界にもいろいろな思想・主義の人が生きています。
お互いに様々な主義主張、“正しい”、“正しくない”があります。
ですが、正しい・正しくない、の基準はどこなのでしょうか?
絶対にこうだ、とどこで100%断言ができるのでしょうか?
“考え続ける”、これが大切なのだと感じます。
白と黒で決めるのではなく、それが本当に白と黒なのかを最後まで考え続ける。
その結果として、それが正しかったとしても正しくなかったとしても、少なくともその行為(最後まで考え続けること)自体は自分が正しいと言えるように。
人工食物(代替肉)の開発
喰種は人の肉を食べなければ生きていけません。
ここを解決しない限り、争いが終わることもありません。
ですが、解決の方法は殺すことだけではありません。
そこで登場するのが“人工食物”です。
カネキと同じように、人と喰種が共存する道を模索した人間もいました。
それが、西野貴未です。
彼女も恋人である西尾が喰種であったものの、“好き”、でした。
だからこそ、その西尾が属する喰種を救いたいという一心から人工食物の研究に没頭したのでした。
人間の肉ではなく、喰種も摂取することのできる代替の食物の研究に取り組みました。
その結果人工食物が開発されたのです。
個人的にここも世界の流れを強く反映していると感じました。
世界、とりわけ欧米では今人工肉の開発が活発で実際にその流れが大きく一般の人々に広まっています。
肉の代替品が人々から求められているのです。
動物保護の観点・環境問題の観点等から、人々が肉の代わりに食べられる食品に切り替え始めています。
大手企業が人工肉のハンバーガーやチキンナゲット・ソイミルクの開発販売に次々に乗り出すのも一般から大きな需要があるからです。
日本でもこの十数年で植物性食品・飲料が一般のスーパー等にも普及するようになりました。
東京喰種における人工食物は、この世界の兆候を反映しているとも感じました。
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まとめ
東京喰種は単なる勝つ負ける・正しい正しくない、という話ではなくその先にあるものでした。
カネキケンも言っていたように、相手や物事をよく知りもしない状態で決めつけるのは、あまりに安易だと自分も感じます。
ですが人間はやってしまいがちです。
その人の一部が気に入らなかったら全部黒、自分に都合の良いことを言う人は善人、自分に都合の悪いことを言う人は悪人、といった具合に。
いろいろな人・生物がこの世界には生まれる以上、それぞれの主義主張・正義・存在意義が存在します。
どれがどうだ、なんてことは結局自分には断言することができません。
ですが、少なくとも考え続けることはできます。
その結果がどうであれ、この考え続けること、安易に決めつけず、最期の最後まで考え抜くこと、このこと(過程)自体が白黒以上に一番大切なことなのではないかとも思います。
東京喰種
公式サイト(ヤングジャンプ):https://youngjump.jp/tokyoghoul/
公式サイト(アニメ):https://www.marv.jp/special/tokyoghoul/first/
ブログ内でのセリフ等引用元:東京喰種:re (発行社:集英社、著者:石田スイ)