アニメ PSYCHO-PASS (サイコパス) 名言とセリフまとめ

2019年1月6日

サイコパスは、生きる意味を改めて考えさせられる作品でした。

少しグロテスクなシーンや無慈悲なシーンもありますが、むしろそこにリアリティーがあり、この作品の大きな魅力ともなっています。
アニメや漫画では必ず最後には救世主が現れ、全ての人・善人が救われる、ですがそれは視聴者・読者の願いや希望であり、現実はそうではない、むしろ逆であることも多々です。

サイコパスはアニメですが、善悪を含めたリアルな人間と現実の世界を再現していると思いました。

誰もが安全に幸せに生きれるよう管理されたシステム(シビュラシステム)。
その中で、何が本当の幸せなのかを葛藤しながら犯罪者を追う者、システムを破壊するため犯罪を起こす者、それぞれの側が放つ言葉は、私達が生きる現実世界に対する問いかけでもあった気がします。

ここでは個人的に自分自身が注目したセリフをその背景と個人的な感想と共にご紹介します。



常守朱 (公安局刑事課の監視官)

重たくてつらい悩みだよ。でもね、今は思うんだ。それを悩む事ができるって、本当はとても幸せな事じゃないかって。

常守朱は、平和を保っているシステム、シビュラシステムそのものに疑念を抱くようになる。
シビュラシステムの基準に従い、犯罪者を取り締まる一方、本当にこの世界は正しいのか疑問を抱くように・・。
ただ、シビュラシステムがあるからこそ、安全が保たれているのも事実だった。

犯罪者に友人を目の前で殺され、葛藤と苦しみに喘ぎながらも、任務を遂行していく。
そんな中、亡くなった友人を思い起こし、語りかけたのが上記の言葉だった。

その言葉は、本当にその通りだと感じました。
生きていると、楽しいことはもしかしたら人生のほんの一部かもしれません。
大半が苦しいことだったり、悩んだり、時にはそれが耐え難いこともあるかもしれません。

そのことだけに集中している時、そのまっただ中の時はそれが幸せだなんてとても思えることではありません。
実際に常守朱自身がそれを身をもって体験し、幸せどころか圧倒的な苦痛・苦悩の中にいました。
ですが彼女がここで言ったのは、そういった側面での幸せ不幸せではありません。

どんなことがあって、どんなにきつくても、自分で悩んで考えていくことができる、悩んで考えて、そうやって自らの意思で何かを選んで生きていくことができる、それはとても幸せなことなのじゃないか。
それが生きているということである、人間であるということである、そういう意味だったのだと思います。

全てが決められ保証されたシステム、その中で潰れそうになりながらも人の可能性を信じて進み続ける常守朱らしい言葉だと思いました。

法が人を守るんじゃない、人が法を守るんです。

同じ公安局刑事課の狡噛慎也が、なぜ法律では裁けない相手を殺さず、法の下に生かして捕らえることに固執するのかと尋ねた時、返したのが上記の言葉です。

正しい在り方を探し求めてきたたくさんの人々の想いが、積み上げられてできたものが法なのだと。
より良い世界を生きることを願った人々の想い、それを守るためにも私達は最後の最後まであきらめてはいけない。

常守朱は大切な友人を目の前で殺されても、その犯人を殺さず生かして捕らえることを主張し続けました。
心から憎んでいた相手にも関わらず、それでも憎しみで殺すことを否定しました。

きっと彼女にとって、犯罪者、とりわけ槙島聖護(シビュラシステムを破壊しようとする犯罪者・サイコパス)を殺すということは、人間自体を否定すること、シビュラシステムなしでも生きていけるという人間の可能性を否定するものだったのだと思います。

彼女が言っていたのは、法をただ規則から倫理から守るということではなく、人々は考えることができ、善意がある、そしてその人々の意思が法を作り出すのだと言っているのだと思います。

法があって人があるのではなく、人があって法がある、常守朱は人間の善意と可能性を信じ続けたのです。

狡噛慎也 (公安局刑事課の執行官)

俺は刑事で居る限り、あの男に手出しができない。法律で人は守れない。なら、法の外に出るしかない。

狡噛慎也は常守朱に刑事でい続けることを約束しました。
常守朱は自分の信念のために全てを投げ捨てて犯罪者を裁く、つまり狡噛慎也がいつか法を破って犯罪者を裁いてしまうのではないかと危惧していました。

法を破るということは、自らも犯罪者となることを意味します。
槙島聖護は凶悪な犯罪者でもあり現在のシビュラシステムでは捉えることのできない免罪体質者でもありました。
法の下では裁くことができなかったのです。

常守朱はなんとか生きたまま槙島を確保しようとしますが、狡噛はシビュラシステムを見限り、自分が犯罪者となってでも槙島を自らの手で裁くことを誓います。
それが常守朱がかつて懇願した約束を破ることになったとしても。

これは狡噛慎也の生き方・信念をシンプルに現した言葉だと思いました。
法律で守れないなら、そこから出るだけ。

法律もシステムも完璧なもののように思えますが、それも人間が作り出したものです。
絶対とは限りません。
法律の下の刑事という身分ではなにも手だしができないのです。

だったら、自分がそこから出て、解決をする、非常にシンプルな考えです。
狡噛にとってなにより大切だったのは、法よりも自分の信念だったのです。
常守朱は最後まで犯人の命だけは奪わないことを懇願しましたが、狡噛が手に取ったのはでした。

宜野座伸元 (公安局刑事課の監視官)

おやじ・・・、遅すぎるだろうが!!

宜野座伸元は常守朱の上司であり公安局刑事課一係のまとめ役でもあった。
その中には宜野座の父親でもある征陸智己も執行官として所属していました。

ですが宜野座は征陸を嫌悪していました。
征陸が監視官から潜在犯になってしまったという事実。
そのことで周りからも潜在犯の家族であると言われ辛い目にあい、最終的に家族もバラバラとなってしまったことが原因でした。

宜野座は征陸を一切父親として扱うことも、自分の父親だと周囲に気付かせることもなく、むしろ常に高圧的な態度で征陸に接していました。

槙島捜索活動もクライマックスに入り、征陸は潜伏先の槙島と対峙しなんとか捕らえて羽交い絞めにすることができました。
ですが、後一歩というところで槙島のトラップにかかって完全に身動きのできなくなった宜野座に向かってダイナマイトを投げられてしまいます。

最終的に槙島を離し、宜野座の目の前に転がったダイナマイトをつかんで投げようとしたところ爆発し負傷してしまいます。
宜野座は自力でトラップから脱出し、征陸にかけよります。

征陸は、目元が若い頃のオレにそっくりだ、と宜野座に声をかけそのまま息を引き取ります。

この時初めて宜野座が征陸のことを“おやじ”と呼びます。
今まで抑えていた感情を全て込め。

宜野座は槙島が自分に向かってダイナマイトを投げる直前、征陸に向かって、絶対に離すな刑事の勤めを果たせと父親としての感情より執行官としての任務を果たすことを訴えました。
宜野座は征陸が自分を助けるために槙島を離しかねないとこの時既に予想していたのです。

征陸が潜在犯になったのも、感情で動く刑事だったことが原因です。
その後シビュラシステムの管理の元、執行官として犯人を追うことになりますが、最後の最後は感情で動くデカ、いえ、父親であることを選択したのです。

本当に複雑なシーンでした。
感情で動いたために征陸が潜在犯となり、同じ過ちを繰り返さないために、常に冷静、時に冷酷非常に物事に厳しく対処し続けることを自分に命じた宜野座、それを見守り、最終的に父親として息子を守りにいった征陸。

最後には遅すぎるだろうがと征陸に向かって叫んだ宜野座。
いくらでもお互いを認め合う時間はあったのに、最後の最後にこんな行動を。
それは征陸に向かって叫んだのと同時に自分に向かって叫んだ言葉でした。
全てが遅すぎるだろうが、なぜもっと早くにオレは、そんな自責の念を含んだ言葉でした。

泉宮寺豊久 (帝都ネットワーク建設会長)

程度の問題ですよ。

泉宮寺豊久は帝都ネットワーク建設の会長という身でありながら、裏では自らの生の喜びを感じるために人間を猟奇的に殺害していた。
また、泉宮寺は老いを克服するため脳と神経以外は自らの肉体を全てサイボーグ化していた。
義手・義足・義眼・人工臓器が当たり前となったこの世界でも。身体のほとんどをサイボーグ化している泉宮寺のような人間はまだまだ稀有な存在だ。

帝都ネットワーク建設の会長としてインタビューを受けている時、泉宮寺は、“なぜ人間は不自由な肉体を捨ててしまわないのか”、といったことも語っています。
インタビュアーが“そこまではちょっと・・。”とためらうと、彼女に対して“あなたもサイボーグだ”と返します。

というのも、人間としての肉体こそあるものの、携帯端末・ホームセキュリティ・AI端末と電子的装置に生活を大きく依存しているからだと述べます。
それらの携帯端末は“第2の脳”ということです。

最終的に、“程度の問題だ”、と語ります。

これは自分も深く納得します。
全ての物事が程度の問題、という部分です。

程度が軽いか重いかで決まるものでも決めるものでもない、という意見も多くあると思いますが、私達は無意識的にも物事を程度で判断していることがあります。
ただそれに気付いていなかったり、気付けていない場合が多いだけです。

また、肉体こそあるものの、私達が生きている実際の世界もその生活を大きく電子的装置に依存しています。
インターネットを使わない日はありませんし、パソコンや携帯に触れない日もほとんどありません。
日どころか、大部分の人がどちらにも1時間さえ触れてないということはほとんどないと思います。
むしろ触れていなかったら落ち着かなくなったり、不安にさえなるはずです。

携帯もパソコンも既に私達を拡張させたもの、つまり、私達自身が既にサイボーグのようなものなのです。

程度の問題、9割が自分の肉体で1割が人工物の人間、逆に9割が人工物で1割が肉体といった泉宮寺のような存在。
程度が双方を大きく分けます。

肉体のほとんどをサイボーグ化した泉宮寺は、不老の身体を手に入れた代わりに生きる喜びを失っています。
生の喜びを補うため、本物の肉体を持った人間を猟奇的に殺害していくのです。

槙島聖護 (犯罪者・免罪体質者)

何者としても振る舞うことができる君自身が、結局のところは、何者でもなかった。

仮想空間でアバターを次々と乗っ取り、最終的に公安局に追い詰められた犯人に対し放った言葉です。
御堂はカリスマ的人気を誇るアバターを操る人間を殺害し、そのアバターを乗っ取り操っていた。
裏で手を引いていたのは槙島で、追い詰められるまでは御堂を支援していた。

だが、最終的に御堂が追い詰められると、いくつものアバターを操つり、何者にもなれた君自身は結局何物でもなかったと見限る。

これは現実世界でも目にすること、もしかしたら自分自身がなっていることかもしれません。
人目を気にし、いくつもの顔を使い分ける、どこでもうまく帳尻を合わせられる。
けれどそこに本当の自分自身の顔はどこにもない。
何者にでもなれ、上手くやっているようで、実際は何者でもない。

何者でもないから何者にでもなれてしまう。

槙島は結局何者でもなかった御堂をのっぺらぼうだと見限りました。

紙の本を買いなよ、電子書籍は味気ない。本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚を調整するためのツールでもある。

槙島の協力者であるチェ・グソンが電子書籍をダウンロードすると応えた時、語った言葉です。
槙島はむしろ効率や機能性を重視する人物だと思っていたので意外でした。
ですが、考えれば分厚い本を読んでいるシーンが時々ありました。
また、その後の言葉を聞いて納得しました。

調子の悪い時に読んでいる本が頭に入らない時、逆に調子が悪くてもしっかりと頭に入る時があり、その違いを何かを考えることが大切。
紙に指で触れ、ページをめくるという行為そのものが、脳の神経も刺激する。

自分も電子書籍と実物の本の両方を読みますが、やはり本当に何度も読みたい本は実物の本として購入します。
全く同じ文字を読むだけなのですが、やはり現物の本の方が頭により深く入ってくる気がするのです。
それはもしかしたら、紙に触れページをめくるという行為が槙島の言うように脳を刺激するからかもしれません。

僕はね、人は自らの意思に基づいて行動した時のみ価値を持つと思っている。己の意志を問うこともせず、ただシビュラの信託のままに生きる人間たちに、はたして価値はあるんだろ~か。

これは常守朱が個人的回想の中槙島と対話した時、槙島が放った言葉です。

実際槙島が言っていることはその通りだと自分も同調します。
人は自分の意志に基づいて行動するからこそ価値がある。
常守朱自身その気持ちは今なら少しだけ分かると槙島に返しています。

自分の意思で考え決断することなく、ただシステムの安全に身を置いて生きる人々、そこに価値はあるのか。
槙島が行った行動は間違いなく犯罪です、ですが槙島は時にしごくまっとうなことを言っている、本質をとらえている、自分はそう感じました。

回想の中、槙島にそのような人間に価値はあるのかと問われ、常守茜は無いわけがない、あなたがその価値を決めるのか、あなたの知らなかった幸せを、友達を、家族を、と反論しています。

友人を目の前で奪われた常守茜だからこその言葉でした。

君たちでは僕の罪をはかれない。僕を裁けるものがいるとしたら、それは・・自らの意志で人殺しになれる奴だけだ

槙島は免罪体質者というシビュラシステムでは捕えることのできない犯罪者でした。
唯一捉えることのできる方法、それは本物の銃を持つことでした。
ですが、それは法を破って、自らの意思で犯罪者となり、人殺しとなることを同時に意味しました。

狡噛慎也が最終的に選んだのは銃を持つことでした。
常守朱は法の下に槙島を捕まえることに固執しました、それは人間の可能性を信じることを同時に意味したからです。

狡噛が選んだ道と常守朱が選んだ道は真逆でした。
ですが、同時に本質では一緒でした。
なぜならどちらも考え抜き、苦しみ抜いた末に自らの意思で決断した道だったからです。

槙島は自らの意思で決断する人間に敬意を表しました。

人は恐怖と対面したとき、自らの魂を試される。何を求め、何をなすべくして生まれて来たか、その本性が明らかになる。

狡噛をおびき寄せた槙島と共謀者である泉宮寺。
銃撃戦の中、泉宮寺は実は共謀者でありながら、自身も槙島の興味の対象であることに気付く。
槙島は狡噛の手助けとなるような仕掛けも同時に組み込んでいたからだ。
槙島は狡噛だけでなく、共謀者の泉宮寺もゲームの対象としていた。

泉宮寺が自分の知らない趣向まで計画に組み込んだのかと尋ねた時、槙島が返したのが、人は恐怖と直面した時にのみ、真意が問われるというものだった。
泉宮寺は槙島のそういう食えないところも嫌いじゃないと返す。

槙島は本当に人間の本質をついた言葉を口にすると感じた。
人間は多少のデメリットや痛みだったら、いくらでも引き受けることができ、また表面的な行動を起こすこともできる。
ただ、それが自分の命を伴わなければならない時、本当の身の危機が目の前に迫った時、それでも同じように行動ができるだろうか。

本当の恐怖と対峙した時に、その人間の真価が問われる。

槙島が興味があったのは、人間の魂の輝きであり、そこには自分も含めて敵も味方もなかったのだ。

君はこのあと、僕の代わりを見つけられるのか

狡噛とのラストシーンで槙島が投げかけた言葉です。

犯罪者とそれを裁く執行官。
お互い真逆でありながら、実は非常に似ていた、少なくとも槙島は狡噛に対してそう感じた。
それは狡噛にとっても認めざるを得ない部分だったかもしれません。

槙島は銃を持つことを自らの意思で選択し、自身をここまで追い詰めた狡噛に対して大きな敬意を払っていました。

狡噛にとって、槙島は友人の敵であり、槙島を裁くことが存在する意義でもありました。

常守朱が言っていたように、槙島を追っている時の狡噛の目は、執行官でも刑事でもなく、猟犬のそれそのものでした。

槙島は狡噛のそれを知っていた、だからこそ狡噛に問いかけた、君は一体この後僕のスペアを見つけることができるのか?と。

狡噛は返す。

いや、もー二度とごめんだね。

セリフ・名言引用元:著者:橋野サル 原作:サイコパス製作委員会




まとめ

サイコパスはアニメでありながら本当に現実世界と人間というものを反映していると感じました。

善悪とは?
幸せとは?
生きるとは?

そんな問いかけを突き付けてきます。

2019年1月にはサイコパスの劇場アニメも公開されます。
そこに答え・ヒントがあるのかもしれません。

PSYCHO-PASS
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